昭和五十六年十一月二十五日 朝の御理解
御理解第七節天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。
御理解第八節子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心をしておかげを受けてくれよ。
段々信心を深く頂いてまいりますと、もう兎に角、もうこの神様のおかげを頂かなければ立ちゆかんのだ、と、いよいよ屑の子の自覚が出けてまいります。もう、兎に角、神様のおかげを頂かなければ出来ん。と言う自覚。何にもできない。まったく屑の子の自覚、ね。私、あの、ただ屑の子という亊。いろいろに昔から、この御理解は問題に鳴尾理解ですけれども。も、色々に頂かなければならんと思うですね。で屑の子ほど可愛いと仰せられる。例えば子供の中に独り立ちが出けない。まあ、いうならば不具の子供があるとしますか。親の思いと言うものはもう、いよいよその子供可愛いと言う気持ちがいっぱいあります。ただ神様が、親がただ可愛い、可哀想というてもらうだけではいけん。それをいよいよ屑の子だからこそ、このようなおかげを頂いたというその神の可愛いというお心が、ね。私共の人間幸福の上にも、その現れてくる。そしてまた、それが現わせるおかげを頂きたいと私は思うんです。 昨日は行橋地区の支部が今度、結成されましたから、初めての、その報告がお祭りがございました。が、まあいつも支部長堀内昌子と言う婦人の一人の信心があの地区にああして合楽の御比礼を現わす亊になった。まあ、ここで言われます信心のそれこそ驚きであり喜びであるのです。思いますに、合楽ではどうしても、合楽理念を芯にした生き方と言うものが身につかなければ出来ません。ね、それも様々ないうなら、何定宇でしょうか。その人の持っておる、まあ才覚とでももうしましょうか、知恵と言うても、力と言うてもいいでしょう。そういうものがこう出てまいりますとね、やっぱおかげの邪魔ンなるようです。自分はこれこれの亊は、これは自分でなからねば出けんといったようなものです、ね。そこに例えば、段々わからして頂くことはまあ、屑の子の自覚である。ね、そしてそこから願われるものね、もう、あなたのおかげを頂かなければ立ちゆかん私であると言う、自覚にいうならば、天の心が、地の心が、日月の心がすっぽりとそこへ、もう入ってしまう。いわゆる天地人一如といったような感じの信心。もう神様のだから、ほんなら、人並みの信心では、出来ない、いうなら日月の心をいよいよ日月の心として実行していこう。まあ、ここはいよいよ天の心でいこう、地の心でいこうという、いうなら天地日月の心をそのまますっぽりと自分の心の中に頂いて、しかもその精進である。私ははじめて行橋と言う所にまいりましたが、随分遠いと感じました。二時間十分か、かかりましたが、あそこは、よう願いが月次祭には御信者は皆一緒に参拝されますが、他の願い亊がありますと、毎日、日参をしてきますからね。そして私はあの思いますのは、そういういよいよ自分ではまあ、いろんな、もうそれこそ口にも出せないような、色んな問題、難儀、もう、人間関係、同時に経済問題、もうギリギリのところを通って来人ですけれども、それが、一つ、一つおかげになっていく。成就していく。それが見事なおかげになっていく。堀内さんのまあ、そう言う、兎に角、屑の子の自覚というか、自覚に立って、あなたのおかげを頂かなければ立ちゆけない私であっても、ね、私がこのように助かっておる、この助かりが、世の難儀な人達にも伝わって行くためには、その縁ある限りの人が、いうなら、私に縁ある一切衆生の人の助かりにもなるような、というのが願いの信心です。この方の。そこだけを願うと言う亊はまあ、取り次ぎ者で申すなれば、難儀な氏子が助かると言う亊の為に精進する訳ですけれども、それ前二、いわゆる、屑の子であると言う自覚が、色んな問題を通して出けてきた。いろんな難儀を通して、もういよいよ神様のおかげを頂かなければ出来る亊ではない。ね、そりゃ、もうお話のような話です。この方の話は、ね。けどもまあ、色々もう、差し障りもありますから、お話も出来ないのですけれども、普通でいうならば、もう、それこそ、もう落ち込んでしまうというか、もうそれこそ、まあ、夫婦の仲である、というなら、いつの昔に夫婦別れでもしておかなければならないといったような問題の中に、それが一切有り難い、有り難いでという答えを出していっておられる、という亊ですね。もう本当に驚きです。きのうのおまつりなんか見せて頂きましても、兎に角、天の心がお祭りに現れておるです、ね。天の心と言えば美わしの心とこう言われるが、もう本当に、美わしいものが、ね、お祭りいっぱいにその雰囲気の中にも、祭事の中にも現れておる。これは皆さんも沢山、お参拝なったから感じられた亊であろうと思うけれども、どうしてこのような亊が出来るだろうかと思う感じである。私あちらで昨日、一昨日はあのようにおしめりでしたから、で、どうも明くる日まで続くような感じのお天候でしたけれども、あのようないわゆる快晴に恵まれて、兎に角、今度お広前が、お広前と言うても名ばかりの御広前ですけれども、八畳か、十畳位にこう広がって、昨日、一昨日の晩まで遅くかかったというその、いままで納屋に使ってあった所を洋風のまあ、応接間風に出来て、それが夫婦でされたんだそうです。もう、夕べ遅うまでかかりましたというて、それが、もう見事に出来てるんですよ、感心しました。額なんかでも、自分の描いた絵やら、子供の描いた絵やらがそれは実に見事な、そのまあ、調和をね、作ってるんです。まあ、親先生、こう、控えて頂ける部屋をと言うて、まあ、言うておりましたが、こうお座敷の先が広い坪になってますが、そこに雨が降っても(トタン屋根)濡れないように何かしてございました。そして、紅白の幕をずっと張り巡らしてございましたが、すぐ隣がテニスコ-トがあるんです。所がその前日、雨でしたから、そのテニスコ-トが使えなくなったんですね。昨日はあんなお天気でしたけど、ですから脱衣所から、もう洗面所とやらでほんな、もう続いておりますから、そちらをどうぞ、御使い下さいと言う亊であったそうですから、そこを使われる。又、お広前の方はいっぱい座られませんから、外にず-っと椅子が出してあったと。 お天気でしたからね。もう、あれが寒いなら、もうとても、いっぱいあけてはどうにも出来ませんでしたけども、まあ本当に天地が自由になると仰せられるが、もう本当に天地がバックだな、と思わずにおれないほどしに、まあ、万端、天気の上にもお繰り合わせ頂いたが、あの天気の上に御都合お繰り合わせ、神様のお心づくしを感じると同じように、もう全ての点にそういうお働きが道、道あふれておったという感じのお祭りでした。もう、支部員の方達の一人、一人のもう、それこそ真心。真心というても、止むにやまれんというものが、私はお道で言う真心だと思う。私は真心です。真です。というてもその真が、真心がです。どうかそうせずにはおれないと言う、止むに止まれないものにこう高められていく。そしてあのお祭りと言う亊になったわけですが、いうならば天の心を持合せ、地の心を修業指してもらい、そして日月の心にならせて頂こうとする一生懸命の精進。ね。ほんならその根本というのはまあ、それこそ、口にも言えないような、もう人間としてこげな腹ン立つ亊があるだろうかと思うように、そういう問題をふんまえなばら、ま経済の問題でも、こんな難儀な亊があろうかというような難儀な中にあってもね、それこそニコニコ受けていかれた。と言うことはまあ、本当に信心の力というより他にないですね。それが一つ、一つ解決のおかげを頂いて、まだ相当借金は残ってるそうですけども、ある御信者がこれだけ御用をして頂くのに借金をもっておられたんでは、だから出来れば私に払わして下さいといったような支部員の方達が現れておるです。兎に角、まあ、親先生にお伺いして、という亊で先日お参りの時の亊のお願いもございましたが、もう、神様、御神具から一切もう、それこそ月々あちらのここの先生方が三、四人毎月まいりますが先生が帰って申しますのに、もう共励会に行くたんびんに広うなっとる。行くたんびんにお道具が増えておる。行くたんびんに御部屋が美しくなっとる。これがたびたび行ったもんの、まあ、そこの行支部にあらわれる神様の御比礼の模様でございました。それがほんならですね、もう本当に何というでしょうかね。いわゆる、あの美しいです。なさることが、はい。ケチな所がないですね。同時に、今言うその地の心も、もう黙っておけさえすればよいというのでなくて、黙ってうけておる亊に喜びを感じておられるです。もう、いよいよ素晴らしいですね。日月の心というてもそうです。あの行橋、合楽間をね、例えば日参してくる、と言うのですからね。そしてその願いがね、私にかかわりあう一切衆生の助かりです。私に関わる人達がみんな助かってまいりますように、という願いなんです。あの人の御初穂には必ずそれが書いてあります。私にかかわりあう一切衆生の助かりを御願い申します、と言うふうに書いてある。そして思いますね、あの美しい心と言う美わしの心にはね、神様がその氏子の上に、その家の上に美しゅう現れなさるですね。間違いなく、ねだから、こんくれ(このくらい)な亊はよかろうと言う、その汚い心がね、もうこの位な亊はよかろうと言うて神様もやっぱり差し引きなさるです。そんなものをかんじます。一人息子がおりますが、また、この一人息子がまあ、何て言うでしょうかね。いま小学校の四年、五年生、六年生。とてもいいです。ね、神様から色々お知らせを頂くです。だから私はこの人達親子の場合はとても私くらいな者で教導はでけません。この親子は神様どうぞあなたが御育て下さらなければという、そういう実感で日々、この人達の亊は祈ります。とても私ごときで育てられるという信者じゃないです。ね、神様あなたが直にお育て下さい、と言うような、まあ、ですから先、どういうふうにお育て頂くかわかりませんけれどもね。これは良太郎君と言うですかね、が何かこう絵を描くと言うかあれは版画ふうなものを、作ってある額をその部屋にまいりまして、一番私の心をひいたのは、その額でした、が何とそれがあの良太郎君があの作成しておるのが大きな額に、入ってありましたが、もう、やっぱり、一つのやはり天地の、天才、適才のとでも申しましょうかね。神様のおかげをこうすっぽりといただけれるような内容を持っておる親子だな、と言うふうに感じました。大きな、この半分位な絵がかかっておりましたが。それは先だって長崎に行った時の情景を私が描きました、ち言うてあすこも、その堀内さんが自分で描いた絵駄と、まあ、良い絵だとは思われないけれども、やはり素人場慣れした感じの絵でした。で、そういうような中にもね、一つの閃きと言うか、才能と言う中にいわゆる、私では何ンにも出来んと言う、我屑の子の自覚に立って精進するときにそういう働きを受ける亊が出来るのじゃないかと言うふうに思います。ね、なかなか、これくらいは自分の力で出来ると言うふうな思いは、段々神様のおかげを頂けば、頂くほど、我無力のね、自覚と言うか屑の子の自覚が出けてまいりますと、それでもう、私は、な-にしっきらんけん、な-に出けんけん、だけじゃいかん。それでいて、なおかつ、その願いをもっておる。あなたのおかげを頂かなければ立ちゆかんのだ、と言う亊と同時に、私のような者がこのようにお道の信心によって助かって、自分の心がこんな場合であっても、こんな喜びを感じれれるという、その喜びをです、人にも伝えたい。為には私に関わる誰もかれもと言うわけにはいかん。もう関係が出けれる人の、人々が皆、一切衆生が取り次ぎ、助けれれるような働きを頂かせて下さい。と言う願いで、かたっぱいから、かかわりあう人達が助かっていく。ね、昨日のお祭りを頂かれた方達はまあ、皆さんも感じられた亊でしょうけれども、もう、本当に一から十まで神様のおかげを頂かなければ出来ない亊だなあ-、と思うようなお祭りでしたが。これからもです、そういう信心がいよいよ育ち、いや神様の御育てを頂かれて、ね、あの地区にいよいよ神様の比礼。いわゆる合楽の比礼がまあ、輝く亊だろうと言うふうに思います。 信心が巧者である、とか、長いとかと言うことでなくて、もう本気で私は言うなら、天地日月の心になる亊肝要と言われる。成程、天の心も、地の心も、日月の心も足ろうた、育っていっておると言う亊は素晴らしい。その根底をなすものは、我無力、我屑の子の自覚と言う亊になります。 「どうぞ。」